ブッダはなぜ「信じて」ではなく「確かめて」と仰ったのか?
ブッダが仰った「信じる」のではなく「確かめる」とはどういうことか。自らの精神を発展させ成長させるような何か、内面を善くしてくれる何かを見つけるためにはどうしたら良いのでしょうか。
自らの精神を成長させ、内面を善くしてくれる何かの見分け方とは?
ブッダという方は人々に真理を説かれた時に、「私の言うことを信じないでください。確かめてみてください。」と仰いました。これはブッダの仰ったことが誰でも確かめられる現実だったからです。
この世の中にはたくさんの情報が飛び交っています。インターネットの登場でその情報量は飛躍的に拡大し、一人一人がスマートフォンを持つ現代では誰もが圧倒的な情報量にすぐにアクセスできるようになりました。
そんな中で自らの精神を発展させ成長させるような何か、内面を善くしてくれる何かを見つけることは難しくなっているように思います。情報量が多すぎて、一体何を信じればいいのかがわからなくなっているからです。
そうなると人は信頼に足る人物を探します。そしてたくさんの同意を得ている人の言うことであれば間違いがないと信じるようになります。もしくはその人物が有名人や権威がある人である場合も、その名声や評判を信頼して信じるようになります。またいわゆる奇跡の類にも人は弱いです。あり得ないような奇跡を目の当たりにすると、たちまち信じ込んでしまうのです。また気をつけなければならないのは、あなたの信頼している人が騙されていたという場合もよくある話です。
「信じる」ということはある意味では楽な行為でもあります。もうそれ以上検討することをしないからです。自らの判断を他人に委ねてしまうこともあります。そして徹底的に検討し尽くしていない場合はどこか危うい結果を招いてしまうこともあるものです。
ではどうやって自らの精神を発展させ成長させる何か、内面を善くしてくれる何かを見分ければいいのでしょうか?
答えが冒頭のブッダの言葉にあります。それが「信じる」のではなく「確かめる」ということです。
ブッダが仰った「確かめる」とはどういうことか?
では「信じる」のではなく「確かめる」とはどういうことでしょうか。簡単に言えば、自らの精神を発展させ成長させる何か、内面を善くしてくれる何かの情報や言葉、方法などを簡単にそうだと鵜呑みにするのではなく、まずは体験してみて、その結果それが確かであればそこで初めて信じてみるということです。
また「確かめる」というのは自ら体験することですから、インターネットで検索したり図書館で調べたり、誰かに聞いたりすることとは違います。ですからここでいう「確かめる」は自ら体験できることに限られます。
もちろん自らの精神を発展させ成長させる何か、内面を善くしてくれる何かについてのことですから、「確かめる」ことができるものになりますし、確かめられないことだとしたら、そもそもそれは少しおかしいかもしれません。
そして、初めからモラルや道徳に反することや、自分を危険に晒す恐れがあること(安全安心な場所で「確かめる」ことができないもの)であればそもそも試してみる必要はありませんし、自分にとって高額な費用がかかるもの、自分の欲望を満たすためのものなども無理に確かめる必要はありません(そもそもそういったものは内面を善くしてくれるものではありません)。
しかし、そうではなく確かめられることであればまずは体験してみるということはとても大切な姿勢です。なぜならば「確かめる」ということは「真剣に物事に関わること」でもあるからです。「確かめる」ということは体験によって、あらゆる角度から観るということでもあり、またより深く探求するということでもあります。
それから体験しても浅い理解で勘違いしてしまう場合もあります。すぐに何かを信じ込んでしまうのです。このような場合は「確かめる」ということが足りないときに起こります。
人はすぐに答えを出してしまいたくなります。「わからない」という状態が不安定だからです。しかし、まだ十分に確かめていないのにも関わらず信じてしまうことこそ不安定です。信じた結果がどうなるかはそれこそどう転ぶかわかりません。
「疑う」と「確かめる」の違いとは何か?
また「疑う」という行為と「確かめる」という行為は大きく異なります。「疑う」というのはただそのことに対する否定的な思考であり、ネガティブな感情です。
それに対して「確かめる」という行為は中立な行為です。そこにはネガティブな思考や感情はありません。心は完全に落ち着いています。落ち着いた心だからこそ、深く、広く冷静に「確かめる」こともできるのです。そうして得た判断であれば、間違いも少なくなりますし、騙されるようなこともまずなくなります。
なぜブッダは「信じないで確かめて」と仰ったのか?
冒頭にも書きましたがブッダが「私の言うことを信じないでください。確かめてみてください。」と仰ったのは、ブッダが語られたことが、全て自らの体と精神を使って確かめられる現実だったからです。
ブッダは人々に何を説かれていたのか。それは人々の苦しみ(病老死苦)からの解放でした。生きることの苦しみからどうすれば人は開放されるのか。その道をブッダは人々に説いて回られました。
その方法こそがヴィパッサナー瞑想なのですが、このヴィパッサナー瞑想は自らの体と精神を使ってあるがままの現実とは何かを「確かめる」ことによって理解できるものなのです。
→ヴィパッサナー瞑想について詳しく知りたい方はこちら
実際にヴィパッサナー瞑想を実践してみると、「なるほど、確かに心は落ち着いてきて、欲や怒りが薄くなってくる。。」ということがだんだんと体験としてわかるようになります。そうなって初めてこの方法は確かなのだと信じればいいのです。
ただしそれを体験できるまでには人によっては少し時間がかかるかもしれません。私自身も恥ずかしい話ですが、何度も体験する過程でこの方法に関する様々な疑いがありましたし、また多くの勘違いもありました。
しかし、体験すればするほど内面の変化を経験し、意識が純粋になっていき欲や怒りは薄くなっていきました。そうなって初めてヴィパッサナー瞑想を信じるようになりました。
仏教は信仰をつくる宗教というより……。
宗教と聞くと、どうしても「特定の何かを信仰していること」と捉えられるかもしません。しかし、仏教(ここで言っている仏教は原始仏教を指しています)に関しては「何かありがたいものがあるから信じなさい」と信仰をつくるのではなく、自らで自らを教える宗教ということができます。
自らで自らを教える宗教とはどういうことかというと、自らの精神と体を観ることによって、真理(現実)とは何かを理解し、真理(現実)を理解することによって、精神の汚れを祓っていく宗教ということです。つまり、外界にあるものではなく、自らに用意されている精神と体からの理解で完結する宗教ということです。
私たちは大抵の場合、外に何か大切なものを探しに行きます。ところが真実はすでに自らの精神と体にあるのです。わざわざ外に出かけて行く必要はありません。
だからこそブッダは「私を信じなさい」と仰いませんでした。「信じなくて良いですから、まずは本当かどうか確かめてご覧なさい。そして、この方法が確かであれば初めて採用したら良いでしょう。」と言ったのです。
ブッダは素晴らしい方だからブッダという人物を信じるというよりも、この苦しみから解放される方法が確かなのでこの方法を信じるということです。ブッダは仏教を布教したかったのではなく、人が苦しみから解放される方法をただ伝えたかったのです。
さあ、みなさんもヴィパッサナー瞑想で自らの精神と体についてのあるがままの現実をぜひ確かめてみましょう。